東北のことを思う日々

イメージ 1

実は、東北に一週間ほど行っていた。
地震の時、打ち合わせしていたときにめまいを感じて、「まずい、脳の血管が切れたか?」と思った。自分の親も脳溢血で亡くなっているし、自分も高血圧のため、薬を飲んでいる生活だったからだ。
しかし、他の者が「地震か?」と言ったのに、ハッと我に返り、すぐさま窓から外を見てみると、電線や木が揺れていた。
事務所に引き返してみると、テレビに地震の状況が映し出されていた。震度7だった。
これは大変なことだと思った。阪神大震災以来の大きな被害が頭をよぎった。あの時は現地へ行くことは無かったが、平成19年の中越沖地震の時に柏崎へ応援に行き、大規模地震の現場を初めて見て地震の恐ろしさを実感したのだが、今回の地震はテレビの画像を見ただけでもその時の比でないことが判った。
時間が経つにつれて、現地の詳細かつ甚大な被害の情報が入ってきた。
あの中越沖地震以来、いつ現場へすぐ行けと言われてもいいように、2~3日分の生活用具はまとめてあった。今回は即日現場へ行くということはなかったが、先に行っていた人の交代要員で、地震から2週間ほどたった3月下旬に東北へ行くことになったのだった。
自分の行き先は東松島市だった。朝になって現場に行く途中、いきなり震度5弱の余震に見舞われた。
現場の状況はすさまじいものがあり、地震から2週間も経っていたにも関わらずテレビで見たのより悲惨な状況が広がっていた。言葉にならないというのはこういうものなのだと悟った。
津波で浸水した街への支援が自分の業務だったのだが、大型の機械を持ち込んで24時間作業していた。家の片づけに避難所から戻ってこられた方もぽつぽつ居られて、騒音や排気ガスも出しているので申し訳なく思いお話させてもらったところ、「遠くから来ていただいただけで嬉しいんだ、ありがとう。存分にやってください。」と言われ、思わず目頭が熱くなった。
1週間の間でだんだん海岸の方へ現場は移動して行った。余震の度に作業中止と関係者全員の安否確認、現場の点検と作業再開・・
あっという間に1週間が過ぎ、後続に引き継ぎ、帰還した。
事務所に帰ってからも、後続部隊の準備の手伝いなどしつつ、東北のことを日々考えている。次回行く時には今回の経験を反映し、よりよい仕事をして東北の人々を支援したい。
早くみんなに笑顔が戻り、街や田畑が元のように戻ることを願っている。